唐人町商店街

亀井南冥と甘棠館

亀井南冥(1743~1814年)は江戸時代後期(天命4年、1784年)に開校した「甘棠館」の総裁です。

南冥は筑前国早良郡姪の浜に生まれ、その後、父聴因と共に唐人町に転居(甘棠館近隣に居住)、幼くして詩文を学び、儒学、医学者として藩に登用されます。のちに甘棠館の総裁になってからは多くの人材を養成したそうです。

南冥は他にも漢詩、書画にも優れ、特に「金印辧」が有名です。また西学問所の西側にある善龍寺山門上に掲げてある「瑞雲」の額は南冥の書と言われています。母は「浄満寺」(現在の今川)井浦家の三女で、お寺は南冥一族の菩提寺で、南冥の墓も境内にあり、福岡県文化財に指定されています。

甘棠館は、当時、福岡藩・藩校の西学問所として開校しました。赤坂門には東学問所である「修猷館」があります。西学問所には農、商家の子息が、東学問所には藩士の子息が集まったと言われています。藩に2ヵ所も藩校があったのはめずらしく、全国から多くの若者が集まりました。

甘棠館の場所は、現在ある甘棠館Show劇場から北側の一帯にあったと思われ、今は学問所跡石碑が道路を隔てて北側(旧新星映画劇場跡地)横に残っています。

寛政2年(1790年)の「寛政異学の禁」の幕府発令により、甘棠館は衰退していき、2度の火災で焼失し、ついに廃校になってしまいましたが、南冥の功績は今もこの地で言い伝えられています。

貝原益軒

新紀行文学の創始者として親しまれたのは、貝原益軒(1630年~1714年)です。

江戸時代の本草学者であり儒学者で、人間文化(社会、歴史、文芸、政理)を研究し、数十冊に及ぶわかりやすい著書を残しました。「筑前国続風土記」は筑前の全村を歩いて地勢、名所旧跡、社寺仏閣、特産品などを記述したものとして有名です。

心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。と、心と身体の両面から健康、長寿を保つための心構えを述べている「養生訓」は、益軒83才の時に実体験に基づいて書いたもので、今川2丁目にある金龍寺に碑文が益軒の座像と一緒に残っています。